イタリアの作家Antonio Dikele Distefanoのエッセイを取り上げます。こんな感じのリードで始まります。
I giovani sono la generazione più povera dal II Dopoguerra. Matrimonio, lavoro, residenza: i pilastri che reggevano la vita dei genitori si sono liquefatti, lasciando il posto a una libertà spaventosa. Uno scrittore 29enne avanza qualche risposta
(Corriere della Sera, 7 settembre 2021)
今の若者たちは第二次世界大戦後、最も貧しい世代である。結婚、仕事、住居といった、親の世代の生活を支えていた柱は崩れ、そこに過度の自由が取って代わった。29歳の作家が、いくつか解決策を提案する。
ひと世代前と現代の若者の生活やアイデンティティーのあり方が比較されていくのですが、そのうちの1つに、現代の若者は(サブカルチャーの過剰な多様化・分散化などによって)自らのアイデンティティーを獲得しにくいのに対し、親世代は何らかのグループに分類でき、自身のアイデンティティーが比較的把握しやすかった、という話が出てきます。
La nostra società era divisa in tante squadre e tu ti identificavi in una di quelle. Facevi una scelta iniziale, più o meno consapevole perché spesso era la squadra che sceglieva te, e poi succedeva questo: la squadra ti definiva, ti inglobava, cambiava la tua identità.
(同上)
(以前は)私たちの社会は多くのグループに分かれており、人はそのうちのどれかの中に属していた。最初の選択をする ― 程度の差こそあれ、意識的に。なぜならグループの方がその人を選ぶ、ということも多かったからだ ― と、続いてこうなった。すなわち、自らが属するグループがその人を定義し、吸収し、その人のアイデンティティーを変えたものだった。
人称代名詞、このブログではしばしば話題にしていますがこうやって正面から扱う回というのは珍しい気もします。今回の文で出てきているような直接目的語になる人称代名詞強勢形というのはイタリア語ではあんまり使われないと言われていて、実際お目にかかる機会は少なめですね。
同じく人称代名詞を正面から扱った第41回でも書いたように、イタリア語(というか、ロマンス語一般)では人称代名詞というのは大きく二つの種類に分けられるんでしたね。具体的には、独自のアクセントを持つ強勢形(libero)とそうでない接語形(clitico)です。「独自のアクセントを持つ」というのは要するに単体で言うことができるということで、「そうでない」というのは常に動詞と一緒に現れないといけないということ、くらいに理解しておいて大丈夫だと思います。強勢形の代名詞は本当に名詞の代わりをしていて、普通の名詞と同じように振る舞うのですが、接語形の代名詞は(動詞と一緒に現れないといけないことからもわかるように)普通の名詞とは異なる独特の振る舞いをします。このこともあって、研究対象としてメジャーなのは接語形代名詞ですね。
代名詞の強勢形はいつ使われるのか
なのですが今回は、強勢形代名詞について見てみたいと思います。接語形代名詞は確かにイタリアで話される諸方言の研究ともつながってとっても面白いのですが、こちらも特に文の意味解釈という観点からなかなか面白い特徴を持っています。まず、第41回では代名詞の強勢形を使うか接語形を使うかが文脈によって決まっているということを見ましたね。強勢形代名詞は、指している要素が既知の要素(dato)ではなく新しい要素(nuovo)として現れる時に使うんでした。新しい要素として現れるというのは平たく言うと、聞き手にとってその要素が予期していないものであるということですね。例文を見てみましょう。
Ti prometto che daremo il premio anche a te. (Salvi & Vanelli 2004: 189)
君にも賞をあげると約束するよ。
この文が適切な状況を考えてみると、聞き手は「話し手(を含む複数の人たち)が誰かに賞をあげること」を既に知っています。聞き手が予期していない、すなわち新しい情報なのは、最後のanche a te「君にも」の部分だけですね。こうした、文の一部分だけを新しい要素にすることを焦点化(focalizzazione)と言います。焦点化するための手段は色々あって、例えば単に焦点となっている要素(すなわち、文の中で唯一新しい要素)を強く言うことでも可能ですね。いずれにせよ、接語形tiではなく強勢形teが使われているのは、これが新しい要素だからです。
今回の文に戻って、強勢形teが使われていることの意味を考えてみます。強勢形がなぜ使われているのかというと、これが新しい要素であるからなのですが、なぜ新しい要素として提示されているのかというと、まさに国光くんが書いてくれたようにFacevi una scelta inizialeとの対比があるからですね。tu「あなた」が、主語ではなく直接目的語であるということに注目することを促しているわけです。
重要なのは、このような「対比」をはじめとした解釈上の効果は、全て直接目的語が新しい要素であることを出発点にして、聞き手が文脈も考慮しつつ理解しなくてはいけないことだということですね。例えば、強勢形の用法というと多くの人がおそらく最初に思い浮かべるであろう次のような「対照」の用法は、焦点化されていることの副次効果に過ぎません。
Ha colpito me (non Andrea). (Salvi & Vanelli 2004: 189)
(アンドレアではなく)僕を叩いたんだよ。
何が言いたいかというと、代名詞の強勢形と直接結びついているのは、この代名詞が新しい要素であるという事実だけです。教科書を開くとしばしば、この事実をもとに聞き手が解釈するという作業の結果として生まれてくる意味(「対比」や「対照」)が強勢形の用法であるかのように言われていますね。結果として確かにそういう解釈をされるし、話し手は聞き手にそういう解釈をしてもらうために強勢形にしているのだから、別にそれが間違っているわけではありません。でも、裏にあるメカニズムがこうなっているということは、知っておいて損はないように思います。
[+α]Antonio Dikele Distefanoという作家、ご存じですか?
今回取り上げたエッセイ、内容を掘り下げていくとすごく面白そうなのですが、そのためのスペースがない(言い訳)ので、この文の書き手で作家のAntonio Dikele Distefanoってどういう作家だろうと思って(全く知らなかった)ググってみたところ、彼の著書の邦訳はまだ何も出ていないようでした。彼の小説Non ho mai avuto la mia etàを原作としたNetflixのドラマが制作され、日本では今年の4月に配信開始されたようですね。
Italian author Antonio Dikele Distefano, who grew up in the northern Italian city of Ravenna, is the originator of new Netflix Original series “Zero,” which marks the first series centered around the present-day lives of Black Italian youths. https://t.co/prsYROjj0N
— Variety (@Variety) April 19, 2021
◆Netflix公式サイト
「Zero/ゼロ」- 4月21日配信開始のNetflix新作オリジナルシリーズ – 予告編では本シリーズから着想を得たMarracashの新曲「64 barre di Paura (原題)」も披露
なかなか面白そう。(田中)