Grammatica+  上級へのイタリア語

[第79回]再帰動詞の形態/femminicidioとジュリア・チェッケッティンさん殺人事件

こんにちは。不定期ながらしぶとく続いておりますGrammatica+です。今回は、日本ではあまり報道がなかったものの、本国イタリアでは非常に大きく報じられ、あらためて「femminicidio(女性殺人)」の問題が前景化し、国全体を揺るがすに至った殺人事件に関連する記事の一部を読みます。

その事件とは、2023年11月11日、大学卒業を目前にしたジュリア・チェッケッティンさん(当時22歳)が、元交際相手のフィレッポ・トゥレッタ容疑者によって殺害されたというもので、トゥレッタはジュリアさんを殴打し死に至らしめ、死体を遺棄、国外へ逃亡し、同月25日にドイツの警察によって逮捕されるに至ります。この事件に関連するfemminicidioという語については[+α](ブログの後半)で少し補足します。

以下に引用するのは、亡くなった女性ジュリアさんの葬儀で、彼女の父・ジーノ・チェッケッティンさんが読み上げた弔辞の冒頭です。

Carissimi tutti,
abbiamo vissuto un tempo di profonda angoscia:
ci ha travolto una tempesta terribile
e anche adesso questa pioggia di dolore sembra non finire mai.
Ci siamo bagnati, infreddoliti, ma ringrazio le tante persone
che si sono strette attorno a noi per portarci il calore del loro abbraccio.

(5 Dicembre 2023, la Repubblica

親愛なる皆さん、私たちは深い苦悩を経験しました。ひどい嵐が私たちを襲い、今でもこの悲しみの雨はやみそうもありません。私たちは濡れそぼち、凍えていますが、私たちを温かく抱き締めるために寄り添ってくれた多くの方々に感謝します。

 

(田中)マーカーを引いた2カ所は再帰動詞の近過去形ですね。再帰動詞でない動詞の場合、近過去形を作る際、助動詞にessereを用いるものとavereを用いるものの2種類があります。しかし、再帰動詞の場合は、常にessereを伴いますね。これはなぜですか?
(土肥)実はけっこう謎の現象

再帰動詞といえば、すでに何度か(第9回第10回第20回)扱いましたね。といっても、最後に出てきたのはなんと三年前です。これらの回では再帰動詞、つまり再帰代名詞を伴った時に動詞が持つ意味の幅広さに注目して、「自分自身」にとどまらないこの現象の奥深さを見てきました。特に第10回では、再帰代名詞がしばしば「この動詞を自動詞として扱え」という指示を出す役割を担っていることと、頻度の観点からいえばむしろこの用法が多数派とさえ思えることを見ましたよね。今回の文に出てくる二つの再帰動詞は、まさにこのパターンです。bagnarsi「濡れる」はbagnare「濡らす」に対応する自動詞として、またstringersi「寄り添う、集まる」は日本語に訳しにくいですがstringere「締める、一つのところにまとめる」に対応する自動詞として使われています。自動詞なのだから、近過去を含む複合時制の助動詞にessereを使うことは不思議ではないですね。再帰代名詞が動詞を自動詞化する働きを持っている証左の一つであると言えそうです。

 

…実は、それだけでは困ってしまうんですよね。これまで再帰動詞を扱った回ではずっと「自分自身」の意味が前面に出てこないものを主に見てきていて、本当に再帰しているものについては、あんまりしっかり見てきませんでした。本当に再帰しているものというのは、問題なく「自分自身」と訳せて、me stesso/aをはじめとした一連の形に代えられるもののことを指すんだと思っておきます。こういう再帰動詞は、しばしば本来的再帰動詞だとか本質的再帰動詞と呼ばれますね。

これまで本来的再帰動詞に注目してこなかったのは、意味に関していえばこういうタイプのものはあんまり面白くないからです。本当に再帰しているものというのは要するに、単に主語と他の要素の一つが一致しているに過ぎないものですよね。第9回では、次の二つの文を比較してこのことを確認しました。

Gianni lava i piatti. 「ジャンニが皿を洗う。」

Gianni si lava. 「ジャンニが自分自身(の体)を洗う。」

これらの文では、動詞lavare「洗う」を中心として表現される出来事の中で、主語として現れる「洗う人」と直接目的語として現れる「洗われる対象」が出てきています。後者は、上の文ではお皿なのに対して、下の文では「洗う人」のジャンニと一致していて、それが再帰代名詞siで表されています。この点において、これらの文におけるi piattiとsiは、特に変わることのない文の構成要素なわけですね。

でも、じゃあこれらの文って本当に並列なんでしょうか。それぞれを近過去の形にしてみます。

Gianni ha lavato i piatti.

Gianni si è lavato.

このように、再帰動詞と通常の他動詞では、近過去をはじめとした複合過去の形にしてみると違う助動詞が出てくるんですよね。さらに悪い(?)ことに、本来的再帰動詞における再帰代名詞に取って代わることができるということになっているme stessoにしてみても、avereが出てきます(Gianni ha lavato se stesso)。つまりこれは、再帰代名詞のうち、なぜか非強勢形だけが持っている特徴です。といってもこれって、学習上は大して問題にならない文法なんですよね。「再帰代名詞mi, ti, si, ci, vi, siがある時は助動詞にessereを使う」という、形から判断できるシンプルなルールだからです。

でも、第22回の+αでも書いたように、その背景にある「なぜ」を問おうとしてみると、これはなかなかの難問です。というのも、助動詞の選択は他動詞・自動詞の区別に依存しているはずだからです。近過去をはじめとした複合時制における助動詞は、他動詞であれば必ずavere、自動詞はものによってavereをとるものとessereをとるものに分かれます。このうち他動詞というのは、要するに直接目的語を伴って使われている動詞のことですよね。我々はlavarsiのsiを直接目的語とみなしていたはずなので、このlavareは他動詞です。でもそうすると、助動詞にessereを使われてしまうと困っちゃいます。再帰動詞の複合過去形は、助動詞の選択に関わるいずれかの前提に修正を迫る言語事実なんですね

 

この現象の解釈や分析に関しては、今のところ有力な結論は出ていないようです。いくつかの解決策としては、まず、再帰動詞を他動詞や自動詞とは別の、第三のカテゴリーとして独立させる考え方があります。次に、このタイプの再帰動詞をすべて第10回で扱った代名自動詞に入れてしまうということもできそうです。要するに、このsiはそもそも直接目的語ではないという考えですね。他には、そもそも他動詞と自動詞の二分法を疑うというものもあります。他動詞というのは「直接目的語を伴う」「助動詞にavereをとる」「受け身の文を作れる」あたりをはじめとした一連の特徴の集合であって、それが全て備わっているものから一部だけのものまで連続体をなしていると考えるわけですね。これらはどれも面白い考え方ですが、それぞれに欠点もあるように思います。皆さんはどう考えますか?

いずれにせよ、学習者にとってまったく問題にならないような事実が、文法を学問として捉えようとすると大問題というのは言語学の醍醐味という感じがします。再帰動詞、やっぱり奥が深いですね。

 

 

[+α]Treccaniが2023年の「今年の言葉」に選んだfemminicidio

(田中)イタリアの辞典Treccaniが毎年「今年の言葉」(la parola dell’anno)というものを選出しているのですが、2023年に選ばれたのはfemminicidioという語でした。

Femminicidio è la parola dell’anno 2023

これはfemmina(女性)+接尾辞-cidio(殺害、殺し)という成り立ちの語で、「女性殺人」とも訳されますが、Treccaniはこの語を以下のように定義しています。

Termine con il quale si indicano tutte le forme di violenza contro la donna in quanto donna, praticate attraverso diverse condotte misogine (maltrattamenti, abusi sessuali, violenza fisica o psicologica), che possono culminare nell’omicidio.[以下略]

https://www.treccani.it/enciclopedia/femminicidio_(Lessico-del-XXI-Secolo)/

女性が女性であることによって対象となる、あらゆる形態の暴力を指す語で、さまざまな女性蔑視的行為(不当な扱い、性的虐待、身体的・心理的暴力)を通じてなされるものであり、殺人という形態に至ることもある。

つまり、女性が、女性であることを一因として受ける暴力全般、を指す語だということですね。

ジュリアさんが殺害されるに至った事件においても、どうやらその背景には、容疑者の、交際相手(交際中も、別れてからも)を束縛し、自分の意に沿うように行動させたいという家父長的な支配欲、「(女性であるジュリアさんが男性である)自分より先に大学を卒業するのが許せない」という幼稚な心理などがあったとされています。femminicidioの最たるケースとも言えるこの悲劇を受け、イタリアの全国の女性たちが日常的に蔓延している性差別に対する怒り・抗議を表明する、という社会的な動きに発展しました。

今回引用した、ジュリアさんの父ジーノさんの弔辞は非常に心を打つ内容ですが、特に印象に残ったのは以下の、男性に向かって語り掛ける箇所です。

Mi rivolgo per primo agli uomini, perché noi per primi dovremmo dimostrare di essere agenti di cambiamento contro la violenza di genere. Parliamo agli altri maschi che conosciamo, sfidando la cultura che tende a minimizzare la violenza da parte di uomini apparentemente normali.

Dovremmo essere attivamente coinvolti, sfidando la diffusione di responsabilità, ascoltando le donne, e non girando la testa di fronte ai segnali di violenza anche i più lievi. La nostra azione personale è cruciale per rompere il ciclo e creare una cultura di responsabilità e supporto.

(5 Dicembre 2023, la Repubblica

まず男性たちに言いたい、なぜなら第一に私たち男性こそが、このジェンダー差別に基づく暴力に対して変化を起こす張本人であることを示すべきだからです。知り合いの男性に話しかけましょう、そして普通そうに見える男たちによる暴力を矮小化する風潮に異議を唱えましょう。

私たちは積極的に関わらなくてはなりません。責任転嫁はやめ、女性たちの声を聴き、たとえどんなに軽微なものであっても、暴力の兆候から目をそらさないようにしましょう。私たち個々人の行動こそが、この悪循環を断ち、責任とサポートの文化を作り上げていくために欠かせないものなのです。

ある意味では、今回のこのブログ記事自体が、ジーノさんの呼びかけに応じるものだ、とも考えています。ジーノさんの弔辞の読み上げは、以下よりご覧(お読み)いただけます。

Gino Cecchettin, il discorso ai funerali di Giulia. Ecco il testo integrale

 

 

 

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