Grammatica+  上級へのイタリア語

[第40回]ripresa(受け直し)/小学校教材における中国人への差別

イタリアの出版社ジュンティが出している小学生向けのテキストに中国人への差別表現があるとして、大学教授であるLala Hu氏が告発した、というニュース。

テキストに書かれていることを簡単に説明すると、少年のドゥッチョくんがクラスメイトの(中国系移民の?)「Leeについてぼくの好きなこと」をリストアップしていて、そこに、

・大きな音を立てずに笑う
・数学が大の得意
などに加え、

«dice ‘glazie, plego’ e anche ‘facciamo plesto’» (=rを正しく発音できない)
«non si offende mai quando la prendiamo in giro»(からかっても絶対に怒らない)

とあるんですね。これに対しHu氏はツイートの中でこのように述べています。

«A parte gli stereotipi sui bambini cinesi», fa notare la professoressa Hu, ma «che ne sa @Giuntieditore del trauma dei bambini quando vengono bullizzati»?

(31 marzo 2021)

「中国人の子供に対するステレオタイプに加えて」とHu教授は注意を促し、また「@Giuntieditore(※ジュンティ社の編集部のアカウント)はいじめを受けた子供の心の傷について何を知っているというのか」と述べている。

この問題の前後関係についてより詳しく知りたいからは、こちら↓のCorriere della Seraの記事をご参照ください。

La bambina cinese che dice «glazie, plego» e «non si offende quando la prendiamo in giro»: nuovo caso sui libri di testo scolastici

 

neについて聞きます

ここでのneはdel trauma以下を指していますよね。つまり、なくても意味は変わらないのでしょうか。あるいはもっと言えば、これは「冗語」 なので正確にはないほうがよい、といったことまで言えますか?

 

「文法」とは何かという話と関わってくる気がします

今回の文のように代名詞と同じものを指す名詞句が一つの文の中に同時に現れる現象のことを、受け直し(ripresa)と呼びます。実は疑問文で受け直しが起こるケースについてはイタリア語学の中で統一された見解があるとは言いがたいのですが、とりあえずは受け直しの一般的な特徴から見てみたいと思います。

まず、受け直しというのは確かに嫌われているというか、「話し言葉的」とか「いらない」といった否定的な評価を受けがちですね。代表例は、やっぱりa me mi piaceみたいな文でしょうか。こういう文はよくある文法ミスと考えられていて、要するに「同じことを二回言う意味ないでしょ」と言われてしまうわけですね。

といっても、最初に言っておかなければならないのは、イタリア語文法には「同じことを二回言ってはならない」なんていうルールは存在しないということです。これは例えば、Io mangio la pizza.と言った時、「私」が二回(人称代名詞ioと、動詞の活用語尾-o)示されていてもまるで問題のない文であることからもわかりますね。また、受け直しは場合によっては義務的ですらあります。次の文を見てみましょう。

Piero, non lo vedo mai. /*Piero, non vedo mai. (Salvi & Vanelli 2004: 307)
ピエーロとは全然会わない。(*は左の文と同じ意味では言えない文です)

こうして考えてみると、「受け直しをするな」という時に想定されている文法というのは、「こういう言葉を使うことが好ましい」とか「使うべきだ」という意味での規則の集まりですね。こういうもののことを、規範文法grammatica normativaと言ったりします。日本語でいうと、ら抜き言葉なんかを思い出してもらうとわかりやすいかもしれません。「食べれます」みたいな言い方を間違っていると言う人はいても、例えば「食べますられる」みたいにどうやっても言えない形であると言う人はいませんよね。

多少雑な言い方ですが、後者のように「言える」(accettabile)かどうかに注目するような文法のことを、規範文法と対比して記述文法grammatica descrittivaと言います。このブログもそうなのですが、言語学では記述文法を扱うことが多いですね。これは、要するに規範文法というのは言語そのものの性質というよりかなり社会的なものであることが関係しているように思います。

 

「同じものを指しているからと言って全く同じであると見なすには、コミュニケーションは複雑すぎる」

前置きがとっても長くなったのですが、今回の文に戻ります。同じ意味の語が二つありますが、規範がなんと言おうとこの文は言える文なのだから、このままに受け入れるべきなんでしょうか? 僕の答えとしてはsìでありnoです(niってやつですね)。というのも、ある表現とそれを受け直す代名詞は、「同じ意味」ではないからです。

まず、当たり前ですがneとdel trauma…は、上の文のloとPiero同様にどちらの語も同じもの(指示物referente)を指していますね。でも、同じものを指しているからって全く同じであると見なすには、言葉によるコミュニケーションって複雑すぎます第37回では文の意味構造というものを見ましたよね。同じ要素でも、文が表す出来事の中でどんな役割を持っていて、それがどんな風に提示されているかによって「意味」は変わってきます。たとえば、ある文を受け身の文にすることを想像してください。表している出来事も、参加している要素も、その役割も全く同じです。でも、じゃあ能動の文と受動の文って「意味」は全く同じでしょうか? 出来事の提示のされ方が違うのだから、少なくとも「意味」と言った時に意図するものによっては、違う意味の文ですよね。

最初に書いたように、今回の文のように疑問文で受け直しが起こるケースというのは分析が統一されていません。しかも、受け直しと言いながら代名詞の方が先に来ている、なかなか面白い文ですね。最近の研究では、こうしたケースの代名詞(ne)は対応する表現(del trauma…)が、それまでの文脈では出てきていないけれど聞き手(読み手)が既に知っている内容であることを示しているとされています。要するに読み手は、文脈上は初めて出てくるdel trauma以下の内容を新しいものではない、書き手と読み手の間で既に共有されている前提知識として読むことを要求されているわけですね。そしてこうしてみると、受け直しの代名詞neには固有の機能(すなわち、意味)がきちんとあるのです。

 

今回の参考文献
Crocco, Claudia, and Linda Badan. 2020. “Dislocazioni a Destra Interrogative Tra Grammatica e Discorso.” Revue Romane, June. https://doi.org/10.1075/rro.18017.cro.

 

[+α]ミラノで最も多い苗字、HuがRossiを抜いて1位に

「イタリアにおける中国」というトピックを取り上げるのは今回で2度目ですね。第24回で土肥くんが「イタリア高級ブランドと中国市場」について書いてくれています(ちなみにその回の文法テーマも「ne」についてでした!)。

イタリアにおける中国の存在の大きさを端的に表すデータとして、人口に対する中国系苗字の増加が挙げられます。La Repubblicaは、2020年にミラノで最も多くみられる苗字として、HuがRossiを抜いて一位になったことを報じています(Hu è il cognome più diffuso di Milano, Rossi è solo secondo)。今回登場した教授の苗字もHuでしたね。ちなみにこの記事によれば、3位はColombo、4位はFerrariだそうです。(田中)

 

 

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